甘木 彫まさ

彫歴

彫歴

2000年創業 彫師歴26年

序章

人の一生には、その時には何の意味も持たなかったものが、後になって振り返ると、すべての始まりだったと気づくことがある。

私の場合、それは一台のタトゥーマシンだった。

当時、私には兄貴と呼んでいた男がいた。

兄貴は若い頃、彫師になるのが夢だったという。ある時、その頃に描いた刺青の原画を見せてくれた。

今の私が見れば、線にも形にも、言いたいことはいくらでもあるのだろう。

しかし、その頃の私には、絵の良し悪しを量る目などなかった。

兄貴が描いた。

ただそれだけで、妙に格好よく見えた。

ある日、兄貴は海外から持ち帰った一台のタトゥーマシンを、

「使わないから」

と言って、私にくれた。

彫ってみろとも言わなかった。彫師になれとも言わなかった。

私もまた、それを手にしたからといって、自分が彫師になるとは思っていなかった。

一台のマシンを、ただ受け取った。

それだけのことである。

少なくとも、その時の私には、そう見えていた。

壊れた一台

ただ一つ、問題があった。

そのマシンは壊れていた。

使いたければ、直すよりほかはない。

私は分解した。

ネジを外し、線を追い、部品を眺めた。

ところが、中を見ているうちに少し拍子抜けした。

思っていたほど複雑ではない。

これなら、自分でも作れるのではないか。

知らないということは、時に人を大胆にする。

私はホームセンターへ行き、使えそうな材料を集めた。

そうして一台のマシンを作った。

良い物だったのか、悪い物だったのか。

当時の私には、それを判断するだけの知識さえなかった。

ただ、自分で作ったものが目の前にある。

動けば、試したくなる。

試すなら、彫ってみたくなる。

私は彫った。

うまくいかなかった。

線は思うように入らない。

何が悪いのかも分からない。

マシンなのか。

針なのか。

それとも私なのか。

今なら答えは考えるまでもない。

しかし当時の私は、その答えを知るための物差しさえ持っていなかった。

それでも、不思議と嫌にはならなかった。

針を入れる直前には、ごく短い時間がある。

うまくいくかもしれない。

失敗するかもしれない。

まだどちらにも転んでいない、ほんの一瞬である。

私はどうやら、彫る技術よりも先に、その一瞬を覚えてしまったらしい。

道具のせいではなかった

それでも私は、まだ道具を疑っていた。

ちゃんとしたタトゥーマシンなら、もう少しましに彫れるのではないか。

そう考えた。

当時は、今のように欲しい物の名を打ち込めば、何でも目の前に現れる時代ではない。

刺青雑誌をめくった。

広告を見た。

調べ回った。

そしてようやく、ちゃんとしたタトゥーマシンを一台手に入れた。

今度こそ違う。

そう思った。

彫った。

何も違わなかった。

そこでようやく、一つだけ分かった。

悪かったのは、道具ではない。

私の腕だった。

あまり愉快な発見ではなかった。

人は失敗の理由を道具のせいにしている間は、いくらか気楽でいられる。

しかし道具を替えても結果が変わらないとなれば、残る原因は自分しかない。

それでも私は、やめようとは思わなかった。

むしろ反対だった。

彫ってもらいたいという気持ちは、いつの間にか薄れていた。

それよりも、自分で彫りたかった。

理由を聞かれても、今でもうまく答えられない。

当時の仲間が身体を貸してくれた。

兄貴も貸してくれた。

兄貴の仲間も貸してくれた。

私は彫った。

失敗した。

また彫った。

少し分かったと思えば、その分だけ分からないことが増えた。

そうして一年ほどが過ぎた。

二〇〇〇年

二〇〇〇年。

私は甘木で、彫師として仕事を始めた。

仕事を始めた、と書けば、いかにもそれらしく聞こえる。

しかし最初から客が待っていたわけではない。

月に数人彫れればいい。

そんな時期もあった。

彫師になったところで、腹が減らなくなるわけではない。

飯を食うにもぎりぎりだった。

客が一人来れば、一人彫る。

そのために絵を描く。

また一人来れば、また描いて、彫る。

腕が出来上がっていたわけではない。

何かを極めていたわけでもない。

知らないことの方が、遥かに多かった。

ただ、最初の頃とは一つだけ違っていた。

もう私は、

彫ることをやめるつもりがなかった。

ブーム

ちょうどその頃、それまで刺青を取り巻いていた空気が、少しずつ変わり始めていた。

まだ「刺青」と聞けば、悪いものを思い浮かべる人の方が多かった時代である。

その一方で、「タトゥー」という言葉が世の中へ広がり始めた。

後に、タトゥーブームと呼ばれる時代だった。

私は、その中にいた。

もちろん最初から、ブームなど意識していたわけではない。

目の前の客を彫っていただけである。

一人彫る。

その人が誰かに話す。

また一人来る。

数をこなすほど、少しずつ客が増えていった。

やがて、

今日予約を受けても半年先。

そんなことが当たり前になった。

一日に八人彫ることも珍しくなくなった。

今なら、よくそんなことをしていたと思う。

しかし当時は、それが普通だった。

彫る。

次の客の絵を描く。

また彫る。

寝る間を惜しんで絵を描き、描き終えればまた針を持った。

二〇〇二年頃には、気づけば年間千五百人ほど彫っていたと思う。

数年前まで、月に数人来ればよかった男が、である。

忙しさの中にいる時、人は自分がどれほど忙しいのか案外分からない。

ただ次の客が待っている。

だから彫る。

その繰り返しだった。

和彫り

タトゥーブームの中にも、

「和彫りがいい」

という客はいた。

そして、その数は少しずつ増えていった。

私は和彫りを彫り始めた。

まだ独学だった。

見て、描いて、考えて、彫った。

仕事の数だけはあった。

だから経験も増えた。

彫れば彫るほど、出来ることは増えていった。

ところが不思議なものである。

出来るようになればなるほど、出来ていないものも見えるようになる。

形にはなる。

絵にもなる。

客も喜んでくれる。

それでも、自分では納得できなかった。

何かが足りない。

その「何か」が何なのか、分からない。

ただ、和彫りを見るたびに、自分のものとは違うものを感じた。

重みがない

三年ほど独学で彫った頃には、それなりに彫れるようにはなっていた。

始めたばかりの私が見れば、十分に彫師らしく見えたかもしれない。

仕事もあった。

客も待っていた。

食えないから困っていたわけでもない。

それでも、和彫りだけは違った。

龍を描けば、龍にはなる。

花を入れれば、花にはなる。

線もある。

色もある。

形もある。

それなのに、どうにも軽い。

重みがない。

何を足せばいいのか分からなかった。

むしろ足せば足すほど、違うような気さえした。

仕事の数で埋められるものではなかった。

むしろ彫れば彫るほど、その違和感ははっきりした。

独学には便利なところがある。

誰にも叱られない。

誰にも止められない。

好きなように出来る。

しかし同時に、間違っていても誰も教えてくれない。

私はそこで初めて、

自分一人では、ここまでだ。

と思った。

客を増やすことよりも、知りたいことが出来た。

甘木にいる彫師

地元の甘木に、有名な彫師がいることは以前から知っていた。

彫時という名だった。

会ったことはない。

ただ名前だけは聞いていた。

ある時、その人の作品を見る機会があった。

私は見た。

そして困った。

自分が三年かけても分からなかったものが、その中にはあるように見えた。

何が違うのか。

なぜ重く見えるのか。

どこをどうすれば、そうなるのか。

分からない。

分からないから、知りたくなった。

どうしても知りたくなった。

人間というものは、知らなくても済む間は平気でいる。

しかし一度、

自分の知らないものが、そこにある

と気づいてしまうと、急に落ち着かなくなる。

私は、その彫師に会いたくなった。

問題は、どこへ行けば会えるのか分からないことだった。

そこで、また兄貴が動いた。

彫時師匠の娘さんが働いている店を、兄貴が調べてきてくれた。

今考えると、私が彫師になっていく道には、妙なほど兄貴が顔を出している。

最初のマシンもそうだった。

師匠への道も、そうだった。

もっとも、その頃の私はそんなことを考えてはいなかった。

店が分かった。

なら、行けばいい。

私は行った。

娘さんの店

店へ行き、

「お父さんに会いたい」

と言った。

当然、会わせてもらえるはずはない。

それでも、また行った。

また、

「お父さんに会いたい」

と言った。

次の日も行った。

また言った。

今なら、相手がどう思ったかくらいは分かる。

知らない男が毎日のように現れて、

「お父さんに会いたい」

と言うのである。

気味が悪くない方がおかしい。

とうとう、

「さすがに家は教えられません」

と言われた。

当然である。

しかし完全に追い返されたわけでもなかった。

娘さんは、一つだけ教えてくれた。

ある河川敷で、ゴルフの練習をしているはずだという。

住所ではない。

電話番号でもない。

ただ、

河川敷でゴルフをしている。

それだけだった。

普通なら、そこで諦めるのかもしれない。

私は河川敷へ行った。

河川敷の男

それから毎日のように河川敷へ通った。

彫師を探しに河川敷へ行くというのも、ずいぶん妙な話である。

名前は知っている。

作品も知っている。

しかし顔は知らない。

頼りになるのは、

「そこでゴルフをしているらしい」

という話だけだった。

私は探した。

そして、ある日、一人の男を見つけた。

キリッとした濃い眉が印象に残った。

彫時師匠だった。

ようやく会えた。

となれば、黙っている理由はない。

私は聞いた。

施術はどこでしているのか。

どうやって彫っているのか。

聞きたかったことを、次から次へと聞いた。

今思えば、師匠は最初、

「やばい奴が来た」

と思っていたと思う。

無理もない。

河川敷で突然現れた若い男が、彫りのことを質問攻めにするのである。

それでも師匠は、施術している場所をなんとなく教えてくれた。

住所ではない。

この辺りだ、という程度だった。

だが私には、それで十分だった。

今度はその辺りを、車で何度も行ったり来たりした。

会えない。

また行く。

やはり会えない。

それを繰り返した。

道の真ん中

数週間ほど経った頃だった。

探している時には会えなかった人間に、妙なところで会うことがある。

道で、ばったり師匠と出会った。

偶然だった。

河川敷まで通い、辺りを車で走り回った時間を考えると、少し出来すぎているようにも思える。

しかし本当に、ただ偶然会った。

そこで初めて携帯番号を交換した。

これでようやく、いつでも連絡出来る。

そう思った。

ところが翌日、連絡をしたのは私ではなかった。

師匠から電話がかかってきた。

突然だった。

「お客さんがいいって言ってるから、今から来ていいぞ」

私は行った。

長いこと探していた場所へ入るきっかけというものは、案外こんなにあっけないものらしい。

見て、試す

そこから私は、定期的に師匠のところへ通うようになった。

学校のように教科書があるわけではない。

一から十まで順番に教えてくれるわけでもない。

見る。

覚える。

帰って、自分でやってみる。

分からない。

また見る。

また試す。

質問をすれば、師匠は答えてくれた。

しかし答えそのものを渡されるというより、考えるための何かを渡されることの方が多かった。

私は長い間、一人で彫ってきた。

だから、人の仕事を見るだけでも違った。

針の動きだけではない。

絵の置き方。

線の流れ。

額の作り方。

墨の濃淡。

自分が「何か違う」としか言えなかったものに、少しずつ形が見えてきた。

分かったと思う。

やってみる。

出来ない。

もう一度見る。

独学の頃と同じようで、決定的に違うことが一つあった。

今度は、

見るべきものが目の前にあった。

龍の在処

ある時、私は師匠に頼んだ。

龍をうまく描きたかった。

「龍の描き方を教えてほしい」

そんな意味のことを言った。

師匠は言った。

「龍を捕まえてきたら、教えてやる。」

妙な答えだった。

龍など捕まえられるはずがない。

もっとも、それくらいのことは私にも分かった。

ならば、何を捕まえるのか。

誰かの龍を写して持って行けばいいという話でもない。

師匠の龍を真似すればいいという話でもない。

結局、自分で探すしかない。

自分が龍だと思える龍を。

人から借りてきたものではない龍を。

師匠は今でも、

「弟子は取っていない」

と言う。

だから私は、

「勝手に弟子を名乗りますW」

と言った。

弟子というものは、本来、師匠が決めるものなのかもしれない。

それなら私は、ずいぶん勝手な弟子である。

ただ、あの日言われた龍だけは、今も捕まえていない。

二十年以上彫ってきた。

何頭描いたかも分からない。

それでも五年後に今の龍を見れば、また何かが違って見えるのだろう。

師匠の言った龍というものは、最初から捕まえられないものだったのかもしれない。

あるいは、

捕まえたと思った瞬間に、逃げていくものなのかもしれない。

甘木 彫まさ

最初から「甘木 彫まさ」だったわけではない。

最初は、彫まさ。

しかし全国を見れば、同じ名を持つ先輩彫師がいた。

ならば、自分の名に、自分の場所を付ければいい。

旧・甘木市。

私が彫ってきた場所である。

そこから、

甘木 彫まさ

となった。

「甘木」は所在地を説明するために付けた言葉ではない。

今では、彫まさと同じくらい、自分の名の一部になっている。

道具

彫り始めた頃と今とでは、道具はずいぶん変わった。

昔は針を自分で組んだ。

マシンには線がつながっていた。

転写も手で作った。

今では無線の機械もある。

カートリッジもある。

プリンターもある。

便利になった。

便利なものは使えばいい。

私は新しいものを嫌うつもりはない。

ただ、便利なものがあるからといって、古いものが出来なくなっていいとも思わない。

今でも有線の道具は残している。

アナログの道具も使える。

身体へ直接フリーハンドで描くことも多い。

新しいものを使うことと、原点を捨てることは、同じではない。

道具は変わる。

人間の身体は、それほど変わらない。

最後に針を持つのも、人間である。

紹介制

約十年前から、原則紹介制にした。

希少価値を作ろうと思ったわけではない。

秘密の店を演出したかったわけでもない。

ただ、紹介制にすると、客が変わった。

飛び込みがなくなった。

知らない人が突然訪ねて来ることもなくなった。

それでも、紹介者を探してまで来る人がいた。

海外から来る人もいた。

そこまでして、

「甘木 彫まさに彫ってほしい」

と思って来た人なら、こちらも一人の客に集中出来る。

長く彫っていると、仕事を増やすことだけが仕事ではなくなる。

誰でもいいから来てもらいたいと思っていた時期も、昔にはあったのかもしれない。

今は違う。

私でなくてもいい人には、その人に合う彫師がいる。

私は、

私でなければ嫌だという人を彫ればいい。

そう思うようになった。

だから看板も要らなくなった。

詳細な住所を公開する必要もなくなった。

電話番号をサイトへ載せる必要もなくなった。

仕事を隠しているのではない。

長く続けた結果、今の形になっただけである。

兄貴のいない二月

二〇一七年二月。

兄貴は亡くなった。

このことについて、上手な文章を書こうとは思わない。

最初のタトゥーマシンをくれたのは、兄貴だった。

彫時師匠へつながる道を探してくれたのも、兄貴だった。

振り返れば、私が彫師になっていく節目には、何度も兄貴がいる。

本人がどこまでそのつもりだったのかは知らない。

彫師になれと言われたこともない。

道を決めてもらった覚えもない。

ただ、

一台の壊れたマシンがあった。

娘さんの店を調べてきてくれた。

それだけで、私の人生は随分違うところへ来た。

兄貴が彫師になる夢を見ていた頃に描いた原画を、私は昔見せてもらった。

結局、兄貴は彫師にはならなかった。

私はなった。

人生というものは、ときどき妙なところで、人の続きを別の人間に持たせる。

それが兄貴の望んだことだったのかどうかは、私には分からない。

分からないままでいいと思っている。

まだ途中

二〇〇〇年から、二十六年が過ぎた。

長いと言えば長い。

しかし、完成したと思ったことはない。

五年前の作品を見る。

下手だと思う。

なら、五年後の私は、今の作品を見て同じことを思うのだろう。

そうでなければ困る。

今の自分を最高だと思った瞬間から、先はなくなる。

だから、

今の自分は、来年の自分より下手。

それでいい。

技術を落とさない。

昨日より出来ることを一つ増やす。

今でも自分の龍を探す。

あの日、河川敷まで探しに行った師匠から出された宿題は、まだ終わっていない。

客がいる限り、私は彫る。

出来る限り、続ける。

残るもの

すでに、祖父、父、孫と、親子三代で私に彫られている家族がいる。

二十六年という時間は、自分の年齢だけを増やしたわけではないらしい。

昔彫った客に子供が出来る。

その子が大人になる。

そして、また私のところへ来る。

いつか、私が彫れなくなる日は来る。

店が残るかどうかは分からない。

名前がどこまで残るのかも分からない。

しかし、人の身体に入れたものは、私の手を離れた後も、その人と一緒に生きていく。

いつか、その作品を見た子供や孫が、

「おじいちゃんは甘木 彫まさに彫ってもらったんだよ。」

と話してくれたら、それでいい。

店を残すことより、

人の身体に作品が残る。

その作品について、誰かが語る。

彫師という仕事には、そういう残り方もある。

終章

もし、彫り始めた頃の自分に会えるなら。

壊れたタトゥーマシンを前にして、何も知らずにネジを外していた頃の自分に。

私は何を言うだろう。

もっと勉強しろとも、

もっと早く師匠を探せとも、

失敗するなとも言わない。

どうせ言ったところで、あの頃の私は聞かないだろう。

だから、一言でいい。

二十六年後も、お前はまだ彫っている。

まだ下手だと思っている。

まだ龍を探している。

それでも、あの日から続いている。

そう教えた上で、たぶん私はこう言う。

「間違ってなかったんじゃない。」